宗教統一への道。
 天動説と地動説  宗祖の立場に立てない  本当の宗教の姿
 コペルニクス     風刺漫画問題
 地動説の証拠     大審問官
 宗教統一の難しさ  解決の道はあるのか(アインシュタインの宗教観)
 一つの宗教にすることではない  アインシュタインの本意
 本当の神観  本当の解決
 科学者の神観  真の神観
 再臨主
 世界平和の実現 2006年3月24日 10:48:35
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天動説と地動説

 天動説から地動説への道のりは、2000年にも及ぶ、実に長いものであった。宗教と科学の戦いと見れば、科学の勝利に終わったように見える。しかし、それだけだろうか。私は、この戦いの道程に新しい光を当て、いま必要とされる宗教統一の可能性に関して、貴重なヒントを得た。
 日本では天動説、地動説というが、世界一般には、天動説を地球中心説と言い、地動説を太陽中心説というのが普通である。ここでは、日本式に天動説、地動説という言葉を使うことにする。

 最初に本格的に天動説を唱えたのは、アリストテレス(前384?前322)と言って良いだろう。では、最初に地動説を唱えたのは誰だろうか。ガリレオ(1564〜1642)の「それでも地球は動く」と言った言葉は有名であり、ガリレオが地動説の元祖のように思っている人もいるくらいである。しかし、そうではない、紀元前3世紀のころ、ピタゴラスの故郷サモス島の数学者アリスタルコス(前310〜前230)によって、「地球は1日に1回自転しつつ、1年に1回太陽のまわりを公転する。」という、驚くべき考えがすでにあったのである。地動説という考え方はたいへん古くからあった。しかし、誰も信じようとはしなかった。人々は、アリストテレスと天文学者プトレマイオスの主張を信じた。アリストテレスは、地面からまっすぐ上に投げ上げられた石はまさに投げ上げられた地点に落ちる、したがって地球は動いてないと言った。プトレマイオスは、もしアリスタルコスの考えが正しいなら、地球の表面は時速2000Kmの速度に達すると主張した。そして、そのような高速度は、地上に嵐を呼び、船を沈め、森林を吹き飛ばすだろうと言ったのである。アリスタルコスの考えは忘れ去られた。そして、紀元後二世紀ころに活躍したプトレマイオスによって、『アルマゲスト(最高の書物)』と言う本が書かれ、それ以後、1000年以上もの間、天動説が権威を持つことになるのである。

コペルニクス

 最初に、本格的に地動説を考えた人物はコペルニクス(1473〜1543)であった。しかし、彼はキリスト教と深く係わっていたので、自説を発表することは考えなかった。そして、彼の弟子によって最初の見本刷が出来た時は、彼は死の床にあったのである。その本は『天球の回転について』と題され、ニュルンベルグで1543年に出版されている。

 ところが、この『天球の回転について』はローマ教皇庁により禁書目録にのせらたこともあって、あまり読まれなかったのである。さらに、旧教のみならず、当時活発に新教を推進していたマルチン・ルターからも旧教以上に強い攻撃を受けるのである。また、よく知られているように、この本を信じたガリレオはローマ教皇庁検邪聖省によって宗教裁判にかけられることになったのである。

 それでは、何故にこれほど長い間、天動説が認められ、地動説が退けられたのであろうか。その一番の理由は聖書から来る宇宙観であろう。そして、天動説では、天上を支配する法則と地上を支配する法則は違うと信じられていた。その証拠に月は地球のまわりをいつまでも回り続けるが、リンゴは木から落ちるし、地面に転がれば、すぐに止まると説明した。天上は神々が支配する領域だと信じられていたのである。しかし、星を観測する者にとっては、不可解のことが多かったことも事実なのである。地動説の方が惑星の運動を説明するには好都合であったに違いない。しかし、地動説が正しいと言うためには、確かな証拠が必要であった。それでは、コペルニクスは何を証拠に地動説を唱えたのであろうか。1530年ころ、彼が友人に宛てて書き送ったものが残っていて、『コペルニクスの要綱』という仮の名で知られている。長くなるが、その要点を書いてみよう。

  1. 天体の円あるいは球の全てに共通な中心は存在しない。
  2. 地球の中心は宇宙の中心でなく、重力の中心、月の球の中心であるにすぎない。
  3. 惑星の軌道はすべて太陽のまわりを回転し、太陽の近くに宇宙の中心がある。
  4. 太陽と地球の間の距離と恒星天までの距離との比は、地球の半径と太陽までの距離との比よりも小さく、従って前者は、恒星天の広大さの中では無視しうるほど小さい。(恒星までの距離は無限に遠いという意味)
  5. 我々が恒星天に観測する運動はいずれも、恒星天そのものに由来するものではなく、地球の運動に起因するものである。従って、地球とその至近にある諸要素とは、あいたずさえて不変の極のまわりを24時間周期で回転し諸天は不動のままとどまっている。
  6. 我々の眼に太陽の運動として見えるものはいずれも、太陽自体の運動によるものでなく、地球の運動と、太陽のまわりを他の惑星と同じように回転している地球の運動とから生ずる錯覚である。このことは、地球はいくつもの運動を同時に行っていることを意味する。
  7. 惑星の見かけ上の後退と接近は、その惑星自体の運動ではなく、これもまた、地球自体の運動から生ずる錯覚である。このようにして、天界に見られる多くの様々な現象を説明するには、地球自身の運動だけで十分である。


 これら、全てが、「仮定」として述べられているのである。ニュートン(1642〜1727)が現れる百年も前にこれだけの内容が示されていたとは、驚くばかりである。しかし、そのコペルニクスさえ決定的な証拠を示すことは出来なかった。

 天動説と地動説が激しく衝突していた、ちょうどそのころ、1609年ころ望遠鏡が発明され、ガリレオによって改良され、望遠鏡による天文観測が出来るようになるのである。

地動説の証拠

 そして、ついに、1727年に、イギリスのジェームズ・ブラッドレー(James Bradley 1693〜1762)によって、地球が太陽の周りを公転することによって生じる、恒星の位置変動が発見されたのである。なんと、天動説と地動説が生まれて2000年も経た後に、地動説の証拠が発見されたのである。さらに重要なことは、ジェームズ・ブラッドレーが活躍した当時は、まさにニュートンの時代と一致する。ニュートンの業績は言うまでもないが、ここで最も強調したいことは、彼によって、「天上」と「地上」が同じ法則によって動いていることが始めて証明されたと言うことである。

 ここで注目すべきことは、見た目には、どちらかと言えば、天動説の方が一般人には馴染みやすかったにも係わらず、地動説が正しいとなった時、結果的に人々に与えたものが何であったかと言うことである。それは、ただ単に地球が太陽を中心として回るという結論だけではない、地動説を唱えた人々の心中に秘められた動機があったのである。それは、無限にひろがる宇宙の存在であったと思う。天動説による宇宙は、ドーム型の天井のように薄い空間に恒星が並べられていると考えられていた。それも、それほど遠い距離だと考えられてなかったのである。今にして言えば、その宇宙の半径は太陽と地球との距離にも満たないほど小さいものだった。ところが、地動説が証明され、人々は宇宙の広大さを知ることになったのである。無限に広がる宇宙に目と心を向けるようになった。それは、天文学者だけでなく、夜空を見上げる万民の心を変えたのである。そこには、宗教指導者がおそれていた神への不敬な思いは微塵もなく、天壌無窮な宇宙を前にして、神への畏敬の念に満たされていたに違いない。信じられていた天上の神々は消えたかも知れないが、人々の心の中の神は星の瞬きの中にも生きていた。

宗教統一の難しさ

 さて、ここで話を本題に戻したいと思う。天動説と地動説の関係を調べていて、何故に「宗教統一の難しさ」に思い至ったのかを説明しなければならない。

 難しい天文学的な説明になるので詳細は省略するが、天動説を採った場合は、地球から見た惑星の運動の説明が大変複雑になるのである。地動説を採れば、太陽から見ることになるので、惑星は同心円上を同じ方向に回っていることになり、非常に簡単なのである。しかし、天動説を採って、地球を中心にして各惑星の運動を説明するとなると、惑星は地球の上を行ったり来たりして、大変複雑な運動をすることになる。

 この事実を知ったとき、私は、多くの宗教がそれぞれに教理を持ち、同じことを言っているようでも、それを互いに理解し合うとすると、大変複雑になることと、天動説を採った場合の、惑星の説明の難しさとの間に何か共通するものを感じたのである。

 宗教の中心は何であろうか。それは言うまでもなく神である。しかし、教理の大部分は人を中心として書かれている。「中心として書かれている」という表現は適切でないかも知れないが、人のあり方に関して書かれていると思うのである。だから、宗教統一を願う立場から、それらの教理を見ると大変複雑に絡み合うことになるのである。しかし、もし、神を中心として、全ての宗教を見直せば、実に簡単に全ての宗教を統一的に理解することが可能ではないかと思ったのである。

 すなわち、表題で述べた、「なぜ宗教統一は難しいのか」と言えば、それは、国の事情、人種や種族の事情、文化習慣に囚われているからである。互いの教理に固執しているからである。経典の一言一句に拘っているから、宗教統一は難しいのである。どの宗教の経典も簡単なものはない。それはちょうど、天動説における各惑星の動きを説明した内容のようである。それぞれは道理にあっている。しかし、相互間の統一性がないのである。

一つの宗教にすることではない。

 ここで宗教統一というと、全ての宗教を一つの宗教にする事だと考える人がいるかも知れないが、そうではない、太陽を中心として水星、金星、地球、火星、・・・と惑星が存在しているように、それぞれの宗教が存在していて良いのである。ただ、一つの神を中心として、統一的に理解されることが重要である。それが出来れば、国の壁、人種の壁、文化習慣の壁、等全ての壁を越えて、万民が理解し合える道が開かれると思う。

 そして、地動説(太陽中心説)によって、人類は無限の広がりを持つ宇宙を知ったように、神を中心とした真の宗教観によって、人類は永遠の平和に至る道を見出すことが出来るのではないかと思うのである。自由主義と共産主義の東西冷戦時代が終了し、今、世界を悩ませているものは、誰も正式には言わないが、イスラム教とキリスト教の宗教戦争と言っても過言ではないだろう。したがって、宗教統一こそが、宗教の統一的理解こそが、最終的に人類に永遠の平和を約束するものなのである。

 そのためには、我々は何をすれば良いのだろうか。ジェームズ・ブラッドレーが望遠鏡で遠い彼方の恒星の動きを発見したように、何を証拠にすれば、全ての宗教は、それぞれの教理を越えて、神を中心として互いに理解し合うことが出来るのだろうか。

 天動説と地動説の場合は、目に見える太陽が中心であったから、話は比較的簡単だったのかも知れない。宗教統一を考える立場からは、見えない神を中心としなければならない。それぞれの宗教が違った神観を持っていては難しい問題になるだろう。確かに、これは宗教統一を難しくしている一因に違いない。しかし、方法は必ずある。望遠鏡で遠い恒星を見たように、我々は目先の利害から解放され、遠い過去から未来へと視野を広げ、真理の望遠鏡に目を当てれば、全ての宗教の中心となる神の存在が見えるのではないだろうか。

 従って、重要なことは、まず神観の問題である。次に、その神を中心として全ての宗教が互いに理解し合うための具体的な方法を見出さなければならない。天動説と地動説の場合は科学の世界であり、証拠が示されれば誰もが認めることが出来た。しかし、宗教統一の場合は、人間の問題である。しかもこれは、個人の信仰観から氏族、民族、国家のそれぞれの歴史性と利害損得が複雑に絡み合った問題を解決しなければならない。

本当の神観

 まずは、神観の問題について見てみよう。宗教や宗派によって、様々な表現がなされている。究極的には同じものだと言う人もいるが、それもまた一つの見解であって、やはり神観は各宗教、宗派で違うのである。

 私は、ここでも、天動説から地動説への問題に類似したものを感じる。上述したように天動説では、天上と地上の運動法則はまったく違うと信じられていた。従って、天上では様々な法則が信じられていたのである。星座の物語に出てくるような空想上の動物が天上には沢山いたのである。それと同じように、我々は「神」の法則と「人」の法則はまったく違うと考えていないだろうか。もちろん、全く同じだということもないだろう。星の運動法則と地球上での運動法則がまったく同じように、「神」の法則と「人」の法則が同じだと言っているのではない。ただ、ここで私は、「神」を全知全能だと一方的に信じることによって、一致しがたい神観の相違が生じるのではないかと言いたいのである。言い換えれば、「神」を空想の世界へ追いやることによって、神観が歪められているのではないかと思う。詳しくはまた後述する。

科学者の神観

 宗教間での神観の違いだけでなく、例えば同じキリスト教の中でさえ、信徒の持つ神観の違いは深刻である。ここに興味ある調査の結果がある。宗教心理学者のレウバ(James H. Leuba 1867〜1946)が1914年と1933年に全米の科学者を対象としてアンケート調査をしている。その調査の内容は、「人と知的あるいは感情的にかかわり、導きを求めて祈る対象となる神の存在と、もう一つは、人格の不死」を信じるか、という問いに対して、「イエス」、「ノー」、「わからない」、「知りえない」、で答えるというものであった。また、Edward J Larson とLarry A Witham とが、1996年と1988年に同じ内容で、同じく、全米の科学者を対象として調査している。その結果は、両者ともほぼ同じであった。「全米科学者名鑑」に名前の出ている科学者の場合、60%の科学者が彼らの定義する神を信じてなかった。さらに、おどろいたことに、全米科学アカデミーに属するエリート科学者の場合は約80%の者が彼らの定義する神を信じていないという結論が出たというのである。

 宗教国家であるアメリカにおいて、この結果は意外である。そこで私は、答えと共に寄せられた多くの批判に注目した。その主なものは「神の定義が狭すぎる」、「私は神の存在を信じているが祈れば神が答えてくれるとは信じてない」、「人格神や人格の不死を信じなくても信仰心を持つことは出来る」というものであった。すなわち、神観の違いが背後にあるのである。宗教統一においては、こうした、個人的な神観の違いも解決しなければならない重要な課題だと思う。

宗祖の立場に立てない。

風刺漫画問題

 次に、宗教統一を考えるときに、神観以外にも大変難しい問題がある。天動説から地動説へという副題からは、少し外れるが、これも重要なことだと思うので、述べてみたい。それは主に二つの側面を持っているように思う。その一つは、最近のイスラム教預言者ムハンマドの風刺漫画問題に現れている。何故あのような暴動にまで発展するのだろうか。一般信徒の気持ちは理解できるとしても、一部分のイスラム教指導者までもが何故暴動に加わるのか。もし、ムハンマド自身であれば、あのような場合にどう対処するであろうか。決して暴動などは起こさないだろうと思う。これは、イスラム教だけの問題ではない。宗教指導者達がそれぞれの宗祖の立場に立てないことは、宗教統一をいっそう困難なものにしていると思うのである。宗祖はより本質的なものを理解しており、本質は普遍に通じるのである。従って、宗祖の立場に立つことが出来れば、必ず互いに理解し合えると思うのである。

 二つ目の側面はさらに深刻である。それは、ドストエフスキー(1821-1881)の書いたカラマゾフの兄弟(1880年)の中の「大審問官」のところに書かれている。これは空想の物語ではあるが、キリスト教が持っている問題を見事に表現していると思う。いや、キリスト教だけではない。他の全ての宗教にも共通して言えることかも知れない。簡単に要約して紹介してみよう。

大審問官

 キリストの降臨は、聖書で約束されているように、天国の栄光につつまれて雲に乗って現れはしなかった。33年の間、人類の間を歩き回った時と同じ人間の姿をかりて、もう一度、民衆の中に現れた。それはちょうど、『華麗なる火刑の庭』で、百人に近い異教徒が、国王や、朝臣、騎士、僧侶、美しい女官らの眼の前で、大審問官の指揮のもとに、一挙に焼き尽くされたあくる日であった。・・・愛の太陽はその胸に燃え、光明と力とがその眼からほとばしった。着物の裾に触っただけで全ての病はいやされた。民衆はホザナと叫んでキリストの後に従った。そのとき、大審問官が通りかかる。彼は90に近い老人であった。彼の顔は暗くなった。眼は不吉な火花をちらした。彼は警護の兵士に向かって、彼を召し捕れと命じた。・・・・暗い牢の中で、じっとキリストの顔に見入って、言った、「お前はキリストか、返事はしなくてよい。おまえは我々の邪魔をしに来たのだ。・・・お前は、いっさいのことを法王に任せてしまったのじゃないか、今はいっさいが法王の手に握られているのだ、だから、今頃になって、のこのこ出て来ることだって、よしてもらいたいものだ。すくなくとも、ある時期までは邪魔をしてもらいたくない。・・・
 飢えた民衆が石をパンに変えて欲しいと言った時、「人はパンのみにて生きるのではない。」と言った。お前は、人々からパンを取上げた。だから私はお前に代わって人々にパンを与えたのだ。その対価として、人々は私の足元に彼らの自由をおいた・・・。
 幾千の人間が、天上のパンが欲しさに、おまえの後からついて行くにしても、天上のパンのために地上のパンを捨てることの出来ない幾千万の人間は、いったいどうなるのか・・・。
 この共通な崇拝の要求が、この世の始まりから、各個人および全人類のおもなる苦悩となっている。崇拝の共通ということのために、彼らは互いに剣をもって殺戮し合った。彼らはおのおのの神を創り出して互いに招き合っている。つまり、《俺たちの神を崇めないか、そうしなければ、おまえたちもおまえたちの神も死あるのみだぞ!》というのだ。・・・・。
 人間の本性というものは、奇跡を否定するようには出来てないのだ。・・・・全ての人間が、自分の例にならって、奇跡を必要としないで神と共に暮らすだろうと思ったのか。・・・・人間は奇跡を否定すると同時に、ただちに神をも否定する。なぜなら、人間は神よりむしろ奇跡を求めているのだ。

 というような趣旨のことが書かれている。ここに全てを紹介できないのが残念だが、最後に大審問官はキリストを邪教徒の極悪人として火焙りを命じ、ホザナと叫んで彼の後に従った者達が我先に、火を投じた。・・・としている。

  
 ドストエフスキーは、大審問官の中で、「悪の本質」のようなものを言わんとしたのではないかと思う。この大審問官では、イエスが山上でサタンから受けたという、三大試練が中心的テーマになっている。そして、ドストエフスキーはこの三大試練に関して、大審問官の口を借りてこう言っている、「この地上で、本当に偉大な奇跡があったとすれば、あの三つの試みの中に奇跡が含まれているのだ。・・・もし仮に、この三つの問いが書物の中から跡形もなく消失してしまったとして、・・・三つの問いを作れ、三つの問いで、世界と人類の未来史をことごとく表現していなくてはならぬ、という問題を提出したとする。・・・世界中の知恵を一束にしてもできないだろう。・・・なぜなら、この三つの問いの中に人間の未来の全歴史が、完全なる一個のものとなって凝縮しているうえに、地上における人間性の歴史的矛盾をことごとく包含した、三つの形態が現れているからである。・・・・」と、このように言っている。

 『カラマーゾフの兄弟』は、ドストエフスキーの集大成だったのかも知れない。しかも、その中で、この大審問官は中心的な部分ではないかと思う。私はその全てを理解できないが、すくなくとも、悪魔に魂を売ったキリスト教の指導者が表現されているのだ。

 宗教間の争いの原因を、ドストエフスキーは「共通な崇拝の要求」という言葉の中に表現している。また、奇跡と信仰の関係に関しても、大審問官の口を借りて、見事に表現している。

 ドストエフスキーが「地の精霊」という言葉で、共産主義を意識したのかどうか分からないが、大審問官がイエスにこのように言っている箇所がある。「おまえは人はパンのみにて生くるものにあらずと答えたが、しかし、この地上のパンの名をもって、地の精霊がお前に反旗を翻し、おまえと戦って勝利を博するのだ。そして全ての者は、《この獣に似たるものこそ、天より火を盗みてわれ等に与えるものなり》と絶叫しながら、その後に従って行くのをおまえは知らないのか。」この「地の精霊」は何を意味するのだろうか。

解決の道はあるのか。(アインシュタインの宗教観)

 以上二つの側面は、ともに宗祖と同じ立場に立てない宗教指導者の姿であるが、特に大審問官のような場合は、宗教とは名ばかりであり、悪魔に魂を売った宗教指導者の姿がそこにある。そのような場合は、利害の対立のみならず、多くの抗争の元となり、宗教統一など思いもよらないことになるだろう。

 天動説と地動説という副題から大きく外れて、このような難しい問題を取上げたのには理由がある。特に、この大審問官に書かれている問題に解決の道を示した人はいないと思っていた。しかし、私は、アインシュタイン(1879〜1955)の宗教観を調べていて、もしかすると彼はこの問題を知っていて、答を出そうとしていたのではないかと思ったのである。科学者としての彼の名前を知らない人はいないだろう。しかし、彼は宗教にも深い理解を持っていた。「宗教なき科学は不具であり、科学なき宗教は盲目である。」という言葉は、彼が残した有名な言葉である。しかし、彼は晩年において、「倫理的善を求めるならば、宗教指導者達は人格神という教義を捨てる度量をもつべきだ。」と主張するようになるのである。何故、彼はこのような主張をしたのだろうか。私は、永年この疑問を持ち続けて来た。最初のころは、ユダヤ人である彼が、ホロコーストで虐殺されていく同胞を目の前にして、「こんな悪がはびこる世界に神などない。」として、神を否定した。しかし、彼の本心が創造神の存在を否定できなかったので、あえて、このように人格神を否定したのだと考えていた。しかし、それは、彼をあまりにも軽くみていると気付いた。世界平和に対する彼の願い、そして、宗教に関する彼の理解の深さ、そうしたものを知れば知るほど、再び、彼が主張した言葉が重く感じられるのであった。

アインシュタインの本当の願い。

 悪魔に魂を売り渡している宗教指導者の姿を、アインシュタインは科学者の目で見ていたのではないかと思う。すなわち、宗教指導者達が神の願いに答えず、さらに、宗教の存在自体が争いを引き起こしている姿をみて、問題を起こすのは人間であるから、神の中から人間的要素を取り除けば良いと考えたのではないかと思う。極端に言えば、人の中に悪魔を見たのかも知れない。しかし、人の中から悪魔を切り離すことが出来ないなら、神の中から人を切り離すしかないと考えたのではないだろうか。科学者らしい発想と言えるかも知れないが、それでは宗教自体が成立しなくなるのである。もちろん、彼はそのことは知っていたと思う。ここに、宗教の現実に苦悩していた彼の姿があるのではないだろうか。苦悩の末、彼はキリスト教でなく仏教に大変関心をもった。

 アインシュタインが悩んだ末にたどり着いた言葉である。「倫理的善を求めるならば、宗教指導者達は人格神という教義を捨てる度量をもつべきだ。」という言葉には、少なくとも宗教指導者達を覚醒させる力があると思う。私は、実際に人格神を捨てよと言うのではないが、宗教指導者達はこの言葉を真摯に受け止めるべきだと思う。間違いなく、神は人格的な神である。では、このアインシュタインの言葉を我々はどう解釈すれば良いのか。もしそれが、トルストイが出した問いに対する答えだとしたら、宗教指導者達が悪魔と決別して欲しい、と彼は言いたかったのではないか。だとすれば、彼のこの言葉こそ、現代の宗教指導者に最も必要な言葉であり、宗教統一のための重要な一言ではないだろうか。

 太陽を中心にして惑星がその周りを回るように、真なる神を中心として、全ての宗教がそれぞれの使命を果たすなら、世界平和は必ず実現するだろう。これこそが、人類が願ってきたものではないだろうか。これが、私が言いたかったことである。

悪魔との本当の決別。

 しかし、私は課題を残したままである。前の所で、神は全知全能だと一方的に考えること、には問題があると言った。ではどのように考えれば良いのだろうか。真なる神とはどのような神だろうか。そして、宗教指導者達が悪魔と決別しなければ、宗教統一は出来ないと言ったが、では、人が悪魔と決別することが出来るのだろうか。

 「神様の理想家庭と平和世界のモデル」と題して語られた文鮮明師の講演を聞いて、私は、この二つの課題に対する答えを得ることが出来た。そこには、全ての宗教の中心となり得る神の存在が語られていた。そして人が悪魔と決別することが出来る具体的な方法が語られていた。そして、さらに、平和世界のモデルが示されていた。この講演の内容こそ、いまの世界の宗教指導者だけでなく、全ての分野の指導者達に最も必要な言葉だと思う。この講演は、2005年9月12日より、12月27日までのわずか107日間において、世界72ヶ国、105都市で講演されている。一人でも多くの指導者が、心に刻んで欲しい言葉である。

真の神観

 私がこの講演を聴いて感じたことを述べてみようと思う。今までの神観では、全知全能の神が、「喜び」、「悲しみ」、そして「忍耐する」神だということは考えることも出来なかった。もちろん、そのようなことが言われることはある。しかし、それは人の側から神に対して、「喜んでください」、「悲しんでください」、「忍耐してください」と言って、人が勝手に神の「喜び」、「悲しみ」、「忍耐」について語っているのである。神自体の「喜び」、「悲しみ」、「忍耐」について明らかにし、そういう意味で、「神の法則」と「人の法則」の間に、明確な関係を示しえたのは、まさに文鮮明師が初めてなのである。「神は愛である。」とは、よく聞く言葉である。しかし、ここで問題なのは、我々が「愛」に関してよく理解してないことだと思う。ニュートンが天上と地上に共通の法則を示したように、この「愛」の法則こそが、「神の法則」と「人の法則」とを結ぶものだと思う。文鮮明師は「皆様も祈祷を通して神秘的な境地に入り、この宇宙の中心が何であるか尋ねて見てください。「親子の関係」であるという答えを聞くことでしょう。」と語っている。

再臨主

 人が悪魔と決別する方法についても、文鮮明師は具体的に語った。簡単には説明できない内容である。ぜひ講演文を直接読むことを薦める。しかし、少しだけ誤解を恐れず、私の感じたことを述べてみよう。結論的に言えば、人は自分だけの力では悪魔と決別することは出来ないということである。船に乗って、船の先端をいくら力をこめて押しても舟は進まないのである。それと同じように、自分の中から悪魔を追出そうとして、いくら力をこめて押しても悪魔は出ないのである。相対性理論を発見したアインシュタインも、この悪魔との関係に関して、あまり注意を払わなかったのかも知れない。もし彼がこの事実に気付いていれば、彼は、「倫理的善を求めるならば、全ての宗教指導者達は、再臨の主にしたがう度量を持つべきだ。」という言葉を残したに違いない。

世界平和の実現。

 今日の宗教は、無神論によって大きな試練を受けている。1948年に出された共産党宣言には、「宗教はアヘンである。」と書かれている。このマルクスが書いた言葉に対して、宗教指導者達は無力であった。その理由は、このマルクスの言葉の裏を読み取れなかったからである。すなわち、「アヘン」を必要とするような「社会」を改革しなければならない、と言うことである。宗教指導者達は、「アヘン」と言われて怒り、共産主義と戦ったが、共産主義者以上に世界平和のために戦うことをしなかったのである。共産主義は自滅した。しかし、これらのことから見て、宗教は未だに共産主義を克服できてないのである。この意味からも、文鮮明師は、明快に世界平和構想を述べている。誰よりも世界平和のために戦おうとしている。世界の指導者達が進むべき道が示されている。宗教は世界平和の最前線に立つべきである。

 最後に、2000年以上にも及んだ、天動説と地動説の戦いに思いを馳せ、新しい宗教統一の可能性に希望を抱きながら、ベートーベンの第九で歌われている、シラーの詞の最後をここに書きたい。

抱き合え、幾百万の人々よ!この接吻を全世界へ!
兄弟よ!星たちの彼方に愛する父(神)が住んでいるに違いない。
ひれ伏すか、幾百万の人々よ?創造主を予感するか、世界よ?
星たちの彼方に創造主を求めよ!星たちの彼方に、彼(神)が住んでいるに違いない。


以上